昭和51年04月25日 朝の御理解
御理解 第86節
「女は世界の田地である。世界の田地を肥やしておかねば貴いものができぬ。女は家の家老じゃ。家老がようなければ城がもてぬというが、女がようなければ家がもてぬ。」
子供が出来損なう、母親がよくない、これも決して母親に限った事でもありますまい、また父親に限った事でもありますまいけれども、矢張り親が良ければ子供もやっぱり良い。良いと言う事は、まぁ私は豊かなと言う事だと言う風に思うです。地を肥やしておかなければ良い物が育たない。田地を肥やしておかねば良い物は出来んと。言うならば心を肥やして心をいつも豊かにしておくと言う様な私は意味だと思うのです。
だから例えばあちらのお母さんはなかなかやり手であるとか、几帳面であるとかと言う様な事ではなくて、豊かな心だと思うのです。だからこれはならその女に限った事ではない。言うならば豊かな心、そこでなら豊かな心のおかげを頂く為に、矢張り心を肥やしておかなければならない。それを私共は信心によって心を豊かな事にする為に、どう言う様な心の状態にすれば、心が豊かに肥えて来るかと言う事であります。
ですから、なかなか一遍に田地を豊穣の地と言うかね、に出来ない様に心も矢張り同じです。矢張りうまず弛まず、心を肥やす手立てというものをしていかなければならない。そこでここでまぁ言われます、これはま絶対にそうなのですから、自然に起きて来る事柄とか問題とかというものを、心の言うならば肥料にしていこうと、それを成り行きを大切にしていくとこう言われる。心にはばからない様な事もありますがそれをこなして行く、それを自分の心に頂いて行く。
そうして行く内に心が段々いうならば豊穣になって行くと。どんなに例えば嫌な物汚い物でも、大地に持っていけば大地が泥が肥えます様に、自分の心を矢張り肥やすと言う事、だからその精進をしなかったら、何時まで経っても心が痩せきれております。心が痩せておって良いものが生まれるとは、良いおかげが受けられるとは思われませんね。ですからそれをお道では修行だというのです。自分でおかげを頂く為に水垢離を取ったり、断食をしたり、と言った様な修行はお道の修行ではありません。
何処迄も心行、何処迄もいうならば。成り行きそのものを、それはよい事悪い事嫌な事であっても、それを自分の心の中に頂くと言う事。もちろんそれは唯受けると信心ではそれを頂くという。ならそういう嫌な問題なら嫌な問題をもって、修行とさして頂きますとか、心を豊かにする手立てとさして頂くという、言うならば神様がどうしてこう言う事が、嫌な事が起こるだろうかというたりせずに、神様がこの様にして私の心をいよいよ豊かにして下さるという生き方です。
そういう生き方を身に付けて行く所に、いよいよ心は豊かになって来る。豊かになるから良い物が生えて来るという訳です。女は世界の田地、私は今日はここの所をこの「世界の田地」という事に痛く惹かれました。いうならば私共が祈りの中に「世界真の平和を願う、世界総氏子の身の上安全を願う」それは祈りの言葉の中に、毎日皆さんが称えておられる様なものである。その称え言葉に終わらずに、そういう祈りが自分の事として出来る。それをなら合楽では最近。「信心の真を現す」と言われています。
信心の真を現すと言う事はどう言う事かというと、犠牲心という犠牲になる。言うならば、親が子供の為に犠牲になる事を厭いません様に、又は子供が親の為に犠牲になる事を厭いませんように、言うならば世の中の難儀な人達が助かって行く事の為に、私の心が言うならば私が修行してでも、私が修行いたしますから、世の中の難儀な氏子が助かって行きます様にと言う様な願いですね。昨日あたりの御理解を頂きますとそこが良く分かります。信心をさして頂きますと、段々言うなら神心が募って来る。
それは心を清める事に精進するからです。言うなら心豊かにして行く事に精進するからです。昨日の御理解、神心が段々強くなって来る。その昨日は神心を例えば雀が一網打尽にかすみ網で捕られておる様子を見られて、近藤藤守と言う先生が「はぁかわいそうなことをする」と思われたその事を教祖様にお話になると、教祖様がその事を神様にお届けになられたら、「そのかわいいと思う心が神心じゃ」と仰せられたいうお話致しましたね。だから信心をしておりますと、その神心が段々強くなって来る。
それは心が豊かになる、今申しますような稽古をするからです。今までは自分さえよければよいと思うておったのが、言うなら周囲の人達が皆んな幸せになってもらわにゃならん。いや世界中の人達が幸せになって貰わなければならないと。いうならば偉大な神心が心の中に育って来るんです。そういう神心がだんだん育って行く。昨日そう言う様な御理解を頂いておったからでしょう、今日は取り分け「世界の田地」と言う事をです。心を惹かれるんです。
そこでお道の信心を頂いておる者がです良うなければ。女が良うなければ家が持てない、家老が良うなければ城が持てないと言う様に、お道の信心をさせて頂く者が、いよいよ神心を募らせて、いよいよ神心を広く熱くさせて頂いて、いかなければ世界が闇になる様な事になる。いよいよ心に光を頂だかせてもろうて、お道の信心をさせて頂く者が心豊かにすると言う事は、矢張り心に光を受けて行く事です。私達の心がいやが上にもそのように育って行くと言う事。
いよいよ豊かになって行くというそこのところを、自分自身の信心をいつもは反省しておりませんと、信心が育っていっていない。成程毎日の祈りの言葉の中には「世界真の平和を願うたり、世界総氏子身の上安全」を願うたり致しておりますけれども、それがただ称え言葉だけであってはおかげになりません。昨日研修の後に先日から学院の人達が研修旅行致しました時に、大阪の泉尾教会に寄らして頂いて、あちらの忙しい先生の時間を少し頂いて、まぁ目に掛かったと言う事です。
先生の話を聞かせて頂いて泉尾の先生はどう言う事を言われるか、現在ご信者が5万人だそうです。たいした事ですね。昨日お話致しましたあのう、泉尾が合楽の先生方が25人あちらは26人と昨日申しましたが、あれは30人だそうです。昨日秋永先生がみえてから、御理解を聞いてからあれは30人です。だから来年は合楽に又5人出来ますから、いうなら同し事になる訳ですね。
在籍教師の人数からいうとです、ならばさほど変わらんのですけれども、人が助かっていっておるという事においては、もう足元にも及ばないという感じが致します。一教会で5万人の信者を擁しておられると言う事です。ですからもう大した先生だろうと思うんです。24の時に布教に出られて、来年が50年になられるそうです。その50年の記念祭を前に、まぁ大変な色んな行事があっておる。毎月こうして御本が泉と言う泉尾と言う泉尾教会で、和泉「いずみ」という御本がでている。
是もあちらから頂いて来た訳で御座いましょう。それでそのうまぁ久しくその先生のお話を頂かしてもらう。私よりも確か10あまり多あんなさいますでしょう、それでいてもう実にエネルギッシュな方で、もういつも世界中を飛び回っておられる。この3月にもアメリカ、ソビエト、イギリスを回っておられます。先日も韓国の宗教人を全部大阪の泉尾教会に集められ呼ばれて。そして宗教会議をなさっておられます。矢張りそう言う所が教団の中では、ある意味で異端視されなさる訳ですね。
教団がしない事を自分でやってのけられる訳ですね。いわゆる世界中の宗教人が手に手を取って、世界の難儀に取り組もうとこういうご精神でしょう。御本を読ませて頂いてもそうたいしたものを感じない。人なら竹内君が聞いてきたという、かく言われるというお話を聞いてもピンとこないわからない。まぁそれを言うならば先生の哲学だろうと、私は言いましたけれども、実際私もとんちんかんでひとつも解らない、どういう意味なのか。だから書かれたものを見ても何か幼稚な気さえする。
ところが人がそれだけ助かっておるという事実がね、どこにあるかと言う事を私昨日色々研修の後に皆で検討さして頂いた。先生がこういう信心を信条としておられるからと言うよな事は分からないけれどもです、問題は先生の心の中にたぎっているものです。それが例えばです、もう泉尾の教会の信者だけが助かれば良いと言った様なものではなくて、世界中の氏子が助からなければおかんという、その為には自分はどげん苦労してもよかちゅう言われる。私が死ぬる時はもう安楽死は絶対ないだろうと。
もう私は苦しみ苦しみ抜いて死ぬだろうと、それでもよい。世の中の難儀な氏子が助かるならば。その意気込みたるやね、とてもとても私共には足元にも及ばん様な、それこそ偉大な信心を内容にもっておられる。世界をいうなら飛び回っていうならそういう手立てをなさっとられると言うその、その心がね。あれだけの人が助かると言う事になるのじゃなかろうかと私は思う。言うなら実感です。私が合楽教会の信者の事を一生懸命願う様な気持ちで、世界中の人間の事を一生懸命に願えれるという先生だと私は思うです。
その為にはね私の心がもっともっと育たなければならない為には、私がもっともっと大きく豊かにならなければならなければならないと言う事になりますよね。言うならば世界の田地である自覚です。私共が。お道の信心者信奉者がです、世界の田地にもなろうという自覚がいると言う事です。そこで先ずは、いうならお宅の家庭の田地になりなさい、お宅の町の田地になりなさい、日本国の言うならば田地になりなさい、と言う様に心の言うならば、広さ深さも段々広なって行く。
広ろうなれというて広くなれるもんじゃない。今日申します様に、その田地を広げて行く、その田地をいよいよ、豊穣なものにして行く為にはです、いうなら否が応でも言うならば、成り行きを尊ばせてもらい、成り行きを大事にさしてもろうて、嫌な事でも一切自分の心の言うならば糧とし、又は肥料としていく、信心修行が必要であると言う事です。そういう信心修行に言うなら有り難いものを、尊いものを感じれる様な信心にならなければいけない。
ただ自分がおかげを頂く事の為に、憂き身をやつしておると言う信心では、何時まで経っても信心は育たないと言う事になります。だから信心のお育てを本気で願わなければならないと言う事です。果たして私共の心がどの様な程度に育っているんであろうか。昨日の御理解を頂いて、佐田のお婆ちゃんがお届けをされました。「先生もう自分事とか自分の一家の事など問題ではありません。
今日の御理解を頂きよると、いよいよ本当にいうならば天下国家の大きな難儀な事に対して、自分の周辺にはこの世に生を受けながら、そして50年間、又は長生きをして百年間長生きをしたというだけであって、または結局仏教的な言葉をもってすると、また地獄に落ちていかなければならない人達ばっかりが、多い事に気付かせて貰うならです、この人達の難儀を、本当に何とか手立てを持って救い助ける道はなかろうかと、言う様な心付けがなければならないと言う事。
かすみ網で一網打尽に捕られてしまう。スズメと人間の難儀な様相と置き換えて昨日話しを聞いて頂いた訳です。皆んながなんでも無い様にして一生を終わって行きよるけれどもです、結局心を清める事に精進もしなければです、徳を受ける心に光を頂こうということに精進も無しに、この世に生を受けてきても、なぁんにも持っていくものが無い。むしろこの世にある間に、罪を創ったりいんねんを創ったり、まぁお道で言うならばめぐりを積んだだけに過ぎない生き方をしておる人達が。
自分の周囲に周辺にどれぐらい多い事だろうか。昨日はそういう御理解を頂いて、研修の時に皆んなが研修しておる、まとめておるものをここで私は1回読んでもらうんですけれども、みんなが本当に感動的な発表を致しました。自分達こそです本当にそういう世の中の難儀な氏子を取次ぎ助けさして頂く、金光大神の手にも足にもなろうと。いうなら天地の親神様の手にも足にもならせて頂こうという、そういう言うなら意欲をもってお道の教師にでも、お取り立て頂こうという人達ばかりですから。
そのう昨日の御理解を頂いての感じというものはねやっぱり違っておる。そこで私は皆んなそれを聞かせて頂いた後に話した事でしたけれども、私がなら世界の難儀に取り組んで世界の総氏子の助かりのために一生懸命になると言うなら、一番身近な事ですから、皆んなの場合はね、親先生の手にも足にもならせて頂こうと言う事が、一番手近な事ではなかろうかねと言て話した事でした。親先生が願うておられる、親先生が祈念を凝らしておられるその祈念に、私共も参画させて貰うという事なんです。
そして私と皆さんが一緒に育って行こうと言う事ですけれども、果たして御互いどれくらい育って行っているだろうか。隣近所の事でも実感を持ってです、本当にあの人達は危ない橋を渡って居る様なもの、あのままいったぶんじゃ又地獄に後戻りしなさらなけりゃならんがと思うたら、どうか手立てを持ってでも助けずにはおかん、救わずにはおかんと言った様なです。止むに止まれん心の状態が祈りともなり、又は自分を犠牲にしてでもと言う事は、私が修行さして頂いてでも人が助かる事の為にと言う事になるのです。
言うならば信心の真を現そうと言うのです。であると言う事をです、ならあぁたここでは今日様に聞いて頂いたような事を、ここにゃ何時もお話をしておる訳であります。おかげを頂く為には、おかげの受け物を作らないといけない。そのおかげの受け物は、いよいよ心が有り難うなる事だ、心が豊かになる事だ、限りなく美しゅうなる事だ。その美しゅうならして貰う、又限りなく広う豊かにならして頂く事の為に、なら成行きをいよいよ大事にさして貰う尊ばせて貰うて、それが嫌な事であっても。それを合掌して受けて行こうと言う事にもう一途にその事を心に決める事だと。
例えば今日一日どういう問題が起きて来ても、それを修行として受けて行こうと腹を決める事なんだ。そうしていく信心修行が重ねられていく内に、いつの間にか心が有り難うなり、何時の間にか自分の心の状態が豊かに美しくなっておるのに、自分で有り難いと思わして頂く様な信心をしなければいけないと言う事を、いつも頂いている訳なんです。だから話を頂いておる修行しよるごとあるけれども、育っていないとするならばね、もう一つ反省がいるのではなかろうかと言う事になります。
私昨日朝御夢の中にこういうお夢を頂いた。ここでも熱心に信心をしております。熱心に御用も頂いておられます。言うならばここではちょっとした信心の手本と言われる位な、信心な熱心な信心をしておられます。その人がね自動車の免許を取り上げられたと言うのです。広く商売しとられます。だから親先生すみませんけど、おたくの幹三郎君か栄四郎君を、暫く貸して頂けんでしょうかとこう言う訳なんです。自分が自動車の免許を取り上げられたから。栄四郎と幹三郎は自動車の運転免許を持っていますから。
私はよかどこじゃないとも思いましたけれども、卑しくも幹栄四郎でも三郎でしたところで、矢張りお道の先生ですから、それを使うと言う事は、いくら心安かでもこれは信心じゃないなぁと思うて目が覚めたです。私はそれを頂いてです、なら今日の皆さんが教えを頂いて下さった事の、裏付けにして頂きたいと思うのです。私は今日は言うならば「女は世界の田地」というところを、お道の信者は世界の田地にならなければ、でなかったら良いものは生み出されない。
合楽に御神縁を頂いているのですから、合楽の信者であるという自覚をです、信心の真をいよいよ現していけれる、信心を頂こうという言う言うならば努力。その努力をいよいよ田地が肥えて心が肥えて行く事の為に、様々なこう言う様な生き方になれば心が肥えて行くんだ。良い物が生まれて来る田地になるんだと、言う事を聞いて頂いたのですけれども聞いて貰い、皆さんもそれを行じておるかの様にみえておってです、実際は自分が使われるのでなく、神様を使おうとしているのではなかろうかと言う事で御座います。
神様を使わんならんから、自分もチットばかり使われとるだけの事に過ぎんのではないかと言う事なんです。御用を例えば頂いていると言うても、おかげを頂かんならんから、御用を頂きよると。一生懸命修行しよるけれども。自分の店が繁盛しなけりゃならんから。一生懸命お参りしよると。いうだけでもし信心がね育たないとするならば、これは何時まで経っても信心の真を現す事にはなりません。自分の事の為にどんなによい修行をしても、どういう御用をさして頂いても、それはおかげを受けるでしょう。一生懸命の信心をするから。一心の信心をするから一心の御用をするから。
けども神様をね、おかげを頂かなければならんからと言う事は、神を使おうとする訳です。栄四郎君か幹三郎君か一時ばっかり、運転手に来て貰うというのと同じ事ではないでしょうか。おかげを頂かんならんから、御用しよると言った様な、お参りしよると言った様な事では、何時まで経っても本当の心は豊かにならんと思うんです。世の中の難儀な人が本当に救い助けられる、いうなら本当の意味において合楽示現活動といわれる示現、示現とは神様が不思議な働きをしめし現して下さる事だと。
私共が現すのではない、神様が示し現して下さる働き。そういう運動に参画さして貰う、そういう運動に私達一人一人が預からして貰うと言う事。それがいうなら合楽示現活動に参画すると言う事なんです。ところがです如何に参画さして頂いても、神様の不思議な働きを示し表す事の出来ない、言うなら神様が現そうとなさってもです、現し得なさらない。言うならば神様が示し現わそうとなさる、邪魔になっておると言う様な信心では、如何に参画さして下さいといっても、本当に参画にならないという事です。
だから私共が合楽示現活動に参画さして下さいという願いをすると同時に、神様の示現いうなら不思議な働きを示し現して下さる事のお邪魔にならん様な信心を、さして下さいと言う事を願わなければならん事が分ります。「合楽示現活動、合楽示現活動」とただ言うとるだけじゃなくて、神様は示現しようと思うとられるのですから、不思議な働きを示し現そうとしておるのですから、その働きを邪魔する様な働きではいかん。それが我情我欲の為に信心をしておると言った様な事では、神様の示現に沿わないのです。
如何にも良い信心しよるごとある、如何にも素晴らしい御用しよるごとあるけれども、なら自分の我情我欲を満たす事の為に、一生懸命信心をしておるとするならばです、それはただ自分の為に一心、自分の事にただ一生懸命に。憂き目をやつしていると言ったら語弊があるかも知れませんが、唯自分の願いを成就して行く事の為に、一生懸命参りよる事ではあんまり値打ちがないでしょう。昨日佐田さんのおばちゃんの言葉じゃないけれども、とてもとても「もう私一家の事なんか問題じゃない。
もう小さい小さいそういう事はもう小さい、その事は神様にお縋りしようけれども、まぁお縋りしたならもう御任せし切って、私はいよいよ合楽示現活動に参画さして貰える信心の資格を頂きたい」と言った様な願いをです。さしてもろうて言うなら無条件に修行さして貰う。信心の真を現すと言う事はね無条件に世のお役に立とう、世の人の難儀の助かる事の為に奉仕しようというのが、信心の真を現すと言う事なのです。そこでなら自分はもう誰にも負けんごたる立派な信心をしよると言うその思うておる。信心をもう一遍検討してみなけらばいけないと言う事です。
栄四郎先生を幹三郎先生を、暫く私が運転免許が取れる間まで貸して下さいと。こりゃ合楽ではもう手本のような信心をしておる人なんですよ。人からも、とてもあなたの真似は出来んといわれる位の信心をしている人なんですよ。そのしておる人が神様の目からご覧になると、まだ自分が使われているのも、神様を使いたいばっかりに、神様を使おうとしていると言う事なんです。神様は喜んで使われても下さるでしょう。けれどもこちら信者氏子としては、それではいけんと言う事なんです。
私が昨日頂いたそのお夢を、皆さんもう一遍皆さんが頂いたとして、なら私こそなら「栄四郎先生を幹三郎先生を暫く貸して下さい」と言っておると言う所まで。自分というものを掘り下げて、はぁこれは自分の信心をもちっとね、豊かな、今日の御理解なら世界の田地である自覚にたって、こんなに痩せ細ってる心では、ただ自分の事だけに終始しておる信心では、良いものは生まれないと気付かせてもろうて、何とかです本気で神様に言うならば使われよう、神の手にも足にもならして頂こう。
親先生の手にも足にもならして頂こう。しかもそれは無条件それが私は信心の真だと思います。だからそれを現して行くと言う事なんです。はぁ「自分の事もお願いが出来んごたるならば、せっかくお参りしよるとに」という人があるかも知れません。それは願いですから、そりゃまぁ実際自分自身が、その泉尾の先生のお話を聞くと、もう実際「願いに願って」と言う事ばっかりが出て来るです、先生のお言葉の中には。先生のお言葉をちょっと読んでみましょうかね。
「勇み」勇ちゅうのは心が勇むという意味でしょうね、これは泉尾独特の先生のお言葉です何時も、「勇みは神様から授けられるもの、してみて不充分、日々自分の不充分さに出会い通して。自分に愛想が尽きる吾、吾の足らなさいよいよ深められ強められ、そこから勇み、それが吾の勇みである。その勇みが何でもの願いを生み出すのである」これはもう沢山使われる、何でもの願いと言われる。もうなんでもの願い、もう願って願って願いぬくという意味でしょう。
「何でもの願いを生み出すのであるその鈍物、不徳者を庇い祈りお使い下さる神様、その喜びその感謝感動から勇み、それが我の勇みである。その勇みが何でもの願いを燃え上がらせる。この足らぬ者鈍物承知で使うて下さる神様御思い、願いが我に勇みをお与え下され、何でもの願いに願いの鬼にして下さる。」願いの鬼と言っとられる。だから願わなければ居られないのだ。
けれども神様の御用に使こうて頂きたい、1日を振り返って見る時に、自分の言うならば詰らない事に、もう辟易と愛想が尽きる程に、自分というものを見極めて御座る。それでも使うて貰わなければ居られんという、勢いをここに「勇み」という言葉で示しておられる。使うて下さい、私の様な鈍物でもです。その鈍物の不徳者をかばい祈り、お使い下される神様、その喜びその感謝、使うて頂けれると言う事が、喜びであり感謝であるといっとられます。
私共も先生の心の底を分かる知ると言う事は、中々難しい事で御座いましょうけれども、神様の御用に使うて頂くと言う事に、全身全霊を打ち込んでおられる。そしてご自分の自覚として、自分の様な愛想の尽きる程の汚い自分を自覚して、それでも使うて下さいと願っとられる。そこに神様がね。泉尾の先生の為にお働きになっておられるその様子が、五万人もの御信者が助かっておられると言う事に成るのじゃないでしょうかね。
本当に使うて下さいの一念です。そこには条件がないです。神様ば使わんならんから、自分が使われておると言った様なものじゃで無いです。ここん所をひとつ、今日はお互い世界の田地の自覚に立とう。お道の信者信奉者、合楽に御神縁を頂いてる信者が、世界の田地の自覚に立とう、先ず自分の家の田地になろう。自分の知っている限りの人達の田地にもなろう。それにはその田地をいよいよ肥やさなければ良いものは生まれない。
そんならば如何にして肥やすか、如何にして世のお役に立つか、如何にして信心の真を現して行くかという事をね。私共信心を再検討さしてもろうて、ただ神様を使おうとしておる事、いわゆるおかげを頂きたい、おかげを頂きたい、だから参っとるだから修行しとるという信心からです、私共の信心の有り方をここに、言うならば、有り方をを変えて行く信心を何とか求めて行きたいと言う風に思います。
どうぞ。